小説を読んでいる時、登場するキャラの造形を勝手に想像するのが楽しい
想像するというとクリエイティブなイメージがあるが、実際には既に知っている既存のキャラの内どれに近いかを考えている ああこのキャラはあの作品のあのキャラに近い見た目をしてるな、と考える
最近では、化物語の羽川翼のビジュアルを、『星のカービィ64』のリップルスター女王でイメージした
キャラの人格もそうやって近似する このキャラの言葉の選び方はあのキャラに似てるな、みたいに考える
これをすると何が面白いかというと、小説のキャラの解像度を上げることができるだけでなく、参照された、既に知っているキャラに対するイメージも具体的にできるという点じゃろう
似てるキャラクターのふるまいを知ることによって、既に知っているキャラの解像度が上がったかのように錯覚することができる
もちろんそれは錯覚でしかないのだけれど、でも自分にとって二次創作ってそういうことだろと思うし、一次創作にあたるものですら同じだと思っている

らきすたポータブルの実況を観た
日下部みさおの声がめちゃめちゃ良かったぜ 萌えすぎ
あんまり日下部に似てるキャラが思いつかなくて新鮮じゃ こういうキャラは印象に残りやすい
日下部の絵を描こうと思い描き始めたが、いつの間にか泉こなたの立ち絵になっていた いつになったら儂は思い通りのキャラを描けるようになるんだろう
ネトゲのくだり
儂も小学生の頃にネトゲに嵌まっていたことがあり、その記憶も相まって刺さるエピソードがあった
クロシオカレント二巻 読んだ
一巻からはハチャメチャドタバタワパワーを感じたが、今回はそうでもなかった
パワーを発散した後に訪れる寂び(詫び寂びのアレ)のようで、凝集していたキャラクター達の結合が切れて、疎らになって、それぞれが空転しているように見える
キャラクター達が集まってイベントが起こっているけど、どこか乾燥していて空虚な雰囲気がある
これはSFの文章を読んでいる時の感覚に近いかもしれない
高知県
物語シリーズを最新刊まで読んだので、続いて戯言シリーズの最初のやつを読み始めた まだAudibleに登録されてないので図書館で借りた
西尾維新の作品ではやたらと数学好きを強調するキャラクターが登場してるような気がする たぶん西尾維新も数学が好きなんだろうな
儂は数学が好きというわけでは無いが、平面幾何の問題を考えるのが好きだった 中学くらいの頃は平面幾何の問題を頭にストックして学校の授業中ずっと考えて時間を潰していた
解けても何の役にも立たない、実用性のない感じがめちゃめちゃ良かった 強いて役立つことといえば、楽しくパズルを解いてるだけで周りが「勉強してる」と勝手に勘違いして、何も言ってこなくなることくらいか
中学、小学六年生くらいの頃から今までの自分は、たしかに自分という連続した存在だ、と感じている 別人ではないという意味である
逆に小学六年より前の自分は、自分では無い別の存在で、死んでしまった過去の存在だと思う
多分儂の思春期が小六あたりで訪れたということじゃろう 思春期には成長というより、急激な肉体の変化による精神的な死、記憶をそのままにした生まれ変わりというイメージを持っている だれも怖がらない通過儀礼としての死
儂は小学二年生くらいの頃からインターネットに触れていて、カービィの某非公式ファンサイトのテキストチャットや掲示板に入り浸って他人と交流しまくっていた
今の儂は悪い意味で社会性が無いが、昔の儂は良い意味で社会性が無かったと思う
チャットを通じて他人と喧嘩をしてたし、迷惑もめちゃくちゃ掛けてたので良い!というと語弊が有りそうだが しかし自意識で他人と交流できず引きこもっている現状と比べれば格段に良かったと言えるだろう
しかし、小学六年生になったあたりでばったりとそういうことをやめてしまった
テキストチャットに行かなくなった最初の頃に感じた、後ろめたさのようなものを今でもずっと感じ続けている 切り分けられて死んだ過去の自分に対する、ばつの悪い微妙な感じをずっと
自分が明確に別人になったと自覚しているのはその一回だけだけど、他人はどうなんだろう
なんとなくだけど、人間的に優れている人は経験が豊富で、そのため過去の自分の別人化の回数が多い人という印象がある
たとえばツイッターの垢が頻繁に変わる人は、社会性があって優秀な人なんだろうなと思う
まあこれは完全な偏見だが

iPadにイラスト描く用のアプリを入れた
純正でないパチモンのペンを使ってるのでまともに描けないだろと思ってたけど、板タブと描きにくさはそんなに変わらない印象じゃ
とりあえず描き慣れている東方キャラクターを描いた
資料を見なくても描けると思えるキャラクターがこの三人しかいない もっといろんなキャラを描けるようになりたいのう
シンプルな見た目のキャラクターは描きやすくて良い ブルアカのキャラは描くのが難過ぎ
実家に引きこもっている
母が韓国の文化にドハマりしていて、暇な時間ずっと韓国語の勉強をしたり、韓流ドラマを観たりしている 儂に韓流アイドルの良いと思うところを凄い熱量で話してくれる
母がここまで何かに熱中するのを初めて見たので、すごい
仕事を辞めて自由に時間を使えるようになったからかな
化物語のアニメを観ている
やっぱり一度原作を読んでおくと普通に観れるな
内容を把握してるので、その分じっくり演出を感じる余裕ができるというか
原作にあった、主人公の内面の語りは殆どカットされている
その分視覚的な演出がふんだんに盛り込まれている
やはり映像作品になると、性質上作品の視点が主人公から離れる感じがするな
「イメージの人類学」という本を読んでいる
こういう本を読んでも、大学の文系教養の授業のように頭の中に何も残らないことが殆どなのだけど
本の中で紹介されていた「実生活の不可量部分」という概念がかなり気に入って、印象に残った
結局自分の中にある問い、関心に関係するものしか吸収できないんだから、儂には教養が一生身につかないのだろうな
もちろん儂は**キャラクターの**実生活の不可量部分について考えている
キャラクターを、規範的な属性の束とみなしている内は決して捉えられないもの キャラクターが世界の中で生きている中で持つ雰囲気、感情や関心、小さな行為や心遣いの機微
それらは本当に小さなものの集まりであり、量的に評価することはできないもので
そういうものが積み重なって、実在しないキャラクターの血肉が形成されていくのだと思う
儂がアニメに求めているのは、キャラクターの実生活の不可量部分を描くこと
原作を持つアニメの多くが、原作のシナリオに演出を加えた、いわばリメイクになってしまうのは理解できる
しかしそれでは、実生活の不可量部分を捉えるのは難しい 原作の展開を追うために急ぎ足になり、小さな描写を積み重ねるような余裕がなくなってしまう
原作の時間軸にとらわれず、アニメだからこそできる不可量部分の描写に力を入れてほしい、と思っている
*1
*1:よつばとの作者が言っていたこともこのことだと思う

だんご
西尾維新の作品は中学生くらいの頃に一度読もうとしたことがある
いや嘘 アニメを観ようとしたんだっけ
当時森博嗣と京極夏彦の小説を読み漁っていたので、それら二人の小説に影響を受けた小説家の小説とかも読んでいて、その流れで西尾維新を知った
しかしなぜか学校の図書館には西尾維新の作品は置いてなかったのでアニメを見たんだった
化物語のアニメ版を見たような気がする 内容は全く覚えてなかったのでしっかり見たわけではないだろうけど
アニメ、というか映像作品って、台詞の重さと台詞ごとの間のとりかたのバランスが自分の感覚と違うことが多くて、ムズムズするんだよな
だから原作があるタイプのアニメは途中で見るのを辞めてしまうことが多くて、化物語もたぶんそうだったと思う
最後まで観たとしても、台詞を咀嚼するため頻繁に一時停止しながら視聴してることが多い
キャラクターが台詞を理解しないまま喋ってるんじゃないか、と勘繰ってしまう それくらい台詞が上滑りしているように見える
実際にはただ自分の頭が悪いだけ、ということなんだろうけど
だから、台詞を好きなだけじっくり咀嚼できるノベルゲーは儂に合ってるんじゃ
ノベルゲーでないのはともかく、ギャルゲー的な物語をアニメでも書籍でもなくAudibleの音声形式で聴いたのはなかなか良い選択だった
装飾で文章をこねくり回すような文体は、落語のようにじっくり耳で聴いた方が楽しめる
見得を切ったような文体は流し読みじゃなくてじっくりと向き合った方がリズムを感じられて面白い
これは京極夏彦とか森見登美彦とかの文章にも言える
君たちはどう生きるか 観た
映像のパワーをひしひしと感じる良い映画じゃ
親と見に行ったのだが、映画が終わった後にずっと映画が何をメタファーにしているかで熱い議論を交わしていて、それを聴くのが面白かった
べつに言いたいことなんか無くてよい 面白ければ