
ぼっち・ざ・ろっく漫画版の1,2巻がkindle unlimitedで読めるようになってたので読んだぜ
せっかくなんで3,4巻も買って読んだ **GOOD**
これはこの作品に限らずなんですが四コマ漫画を読んでいるときに感じる独特なリズム感、良いですね 癖になる
四コマ漫画という形式なので、四コマというひとつのまとまりで、なんらかのオチがつく
そして、その四コマが束になり重なり合うことによって、全体の一貫性をもったストーリーがにゅるりと進行し時間が流れてゆく
このテンポの良さ! すばらC 読んでいてそれを改めて感じて、楽しかった
あずまんが大王を読んだときも思ったけど、このテンポの良さは俳句とか連歌を読んでいるときのそれに近い 物語の内容自体か、四コマという形式によって弾みをつけられているかのようで
四コマという形式それ自体が秘めているパワを、改めて感じたぜ
そして、このテンポの良さを損なわず、さらにアニメならではの表現形式に落とし込んでいるアニメの製作者もめちゃめちゃスゴイ
原作四コマのアニメは、コマとコマの間に時間的な「間」を挿入しなくてはならず、それによって漫画を読んでいるときに感じられたテンポ感が失われてしまいがちじゃ
このアニメではそういうことがあまりない コマの切り替えに対応する構成、演出がふにゃふにゃにウマイ 魔法?
やっぱりせっかくアニメにするんだから、アニメじゃないとできない表現をやってくれた方が楽しめるやね
漫画といえば、チェンソーマンの漫画も読みました
ちょっと読んでみて、これは一気読みするべき漫画だと思ったので一日で一部を全部読んだ
ジャンプ+の初回無料システムは素晴らしいね
儂の理解力に問題があると思うんだけど、チェンソーマン、というかジャンプ系漫画の戦闘シーンって、読んでも読んでも何が起こってるか全然理解できないことが多い
特に物語後半、強いやつ同士が戦ってるシーンはすごいぐちゃぐちゃしていて、なんかハチャメチャなバトルをしているな、ということ以外何もわからない
バトルの勢いだけしかわからない しかしその勢いだけがめちゃめちゃ伝わってくる感じが楽しかったりする
ただただ混沌とスケールのでかさに圧倒されることの面白さがある
何が起こってるかぜんぜん分からないけど、なんかスゲー!という気分でぐわっと読めてしまう漫画を久しぶりに読んだので、わりと新鮮な気分じゃった
これは四コマ漫画にあったテンポは一切なくて、うおおおおおおオオオ!!!みたいな勢いで楽しむ漫画だと儂は思っている
そんな感じで久しぶりに漫画を読んでいたら、もっと新しい漫画をむさぼりたくなってきたので、今日はずっと読みたいと思いつつ手を出していなかった竹本泉の漫画「アップルパラダイス」を買って読んでいた
アップルパラダイスを読むという高校生の頃の夢がいま、一つかないました(あなや)
竹本泉が影響を与えた作品といえば枚挙にいとまがない
東方やハルヒとかは、作者がルーツの一つだと公言しているし、きらら系の日常漫画とかも竹本泉がルーツの一つだと思っている(明確なルーツでいえばあずまんが大王、ToHeartとかの文脈なんだろうけど、さらにそれ以前の少女漫画文脈のハナシ 吾妻ひでおあたりの)
とにかくこの、はにゃあんと(木之本桜的に)読める感じが落ち着く
作品にはテンポもなく、勢いとかもなくて、だからただただ作品世界をたゆたい、ゆるふわ不条理を頭で感じて楽しむのが正解なのじゃろう(どういうこと?)
うじゃ
文章が書けねー
作文の課題とかでまとまった文章を書かされる機会があるが、毎回ちぐはぐて筋の通ってない文章を生成して苦しんでいる 儂にもう少し作文能力があれば…とその度に思う
文章を書くことと思考することは殆ど同義で、儂はうまく思考することができていないのだと思う。たとえば何かしらのテーマが与えられて、それについて何かを思考しようとしても、何も浮かんでこない。本当に全く何も頭に湧いていないわけではなくて、断片的な単語とかは浮かんでいる が、それらの単語をお互いに関連付けて結びつけ、文章として形作るということができない。
出力できるのは単語だけで、毎回それらを苦しみながら無理やりくっつけて形にしている。そうやって、ちぐはぐで、文章のような体裁をもっただけのキメラができあがる。
親に文章をどう書けば良いかを聞いたことががあり、親は段取りをちゃんととれば自然と文章ができると言っていた。そのときは確かにそうか、段取りさえとれば良いのか!と納得したが、実際に、親に薦められたように段取りをとってみても、ちゃんとした文章ができたことはなかった。
たとえ文章ができたようにみえても、それはどこかで他人の文章を軽く編集しただけのものになっている。他人の文章をお手本として、それの言葉や順序を入れ替えただけのもので。テーマに沿った自分の考え、思考が、文章でしっかりと表現できた、と実感したことは一度もない。
段取りをとるということはつまり思考を分割して、思考のリソースを集中させるということだろう 思考を分割しまくって、単語レベルに小さな部品についてまず考える そこから部品を少しずつ組み合わせて行って大きな思考のかたまりを作り、そうしているといつのまにか自然と文章ができあがっている、というカラクリ
いやいやいや 思考を分解して、何? 小さな部品をつくるのはわかった だけど、その部品をどうやって組み立てるんだ?組み立てるための設計図は、どうやって用意するんじゃ?思考を小さなレベルに分解して、それを組み合わせて文章を作ろうって、結局それは問題を循環させているだけで何も解決しないのでは?
作文には直観的な結論が先にあり、それが設計図として機能しているのではないか と考えてみたが、結局その直感的な結論が浮かんでこない場合はどうすることもできない それもまた思考の一種だと儂は捉えている
結局、思考を何に沿って組み立てているのかなんて誰も教えてはくれないし、だれにも教えることはできない みんな感覚的無意識的にそれを行っている しっかりと組み立てられた製品を通じてしか、その人の説明不可能な思考形式を感じることはできない、と思う

エロゲーのエロシーンの怖さ 特にエロシーンが無くても成立してしまう未成年に寄り添ったエロゲーでのエロシーンの怖さたるや
はい!ここで陰茎をこすってください!というエロゲー作成者側のメッセージがキャラクターを破壊しているような
キャラクター性が剝奪されたキャラクターをキャラクターと呼んでも良いのか!?(まあこれはエロシーンの質の問題のような気もするが) キャラクターと呼べないのなら、儂は一体何を見させられているんだ
破壊されたフィギュアの断片のようにキャラクターという形象が分解され、より原始的な部分構成だけを観てしまったかのような そこだけ人間から人間性を取り払ってしまったかのような キャラクターはキャラクター性がすべてみたいなものなのに、そのキャラクター性を奪ったものを見せるんですか!?!?!?みたいな感覚
キャラクター性が無くて、ただ『使える』ものであればいいならさっさとAIに描かせれば良いでしょう プロンプトでキャラ(の外見)とシチュエーションを指定すればエロシーンが出力されるAI 誰か作ってあげて
でもこの生々しい程むきだしになった上質な『原型』を見る機会ってエロゲぐらいくらいでしか得られないから、ある意味貴重なのかもしれない しかしこれで陰茎をこする気にはならないんだよな
そういえば、森博嗣の新刊のあれはシリーズ最終巻に該当するという認識でよろしいんじゃろうか?ネタバレが怖くて詳しく調べられてないが…
→著者のホーページをみたかんじだとシリーズ続編ではないらしい しかし明らかにオメガァだし匂わせが過ぎる どういうこっちゃい?
まあ、たぶん作品をシリーズに分けようとするということ自体がナンセンスなのだろうけど……

ぼっちざろっくのキャラクターを描くつもりだったのだがいつのまにかわたモテの二人になっていた まだ自分の中でキャラクターをつかみきれておらず、既に消化済みの類型的なキャラクターに姿形を半無意識的に寄せてしまったのだと思う
ワタモテは、特に根元陽菜というキャラクターの中途半端なリアル感が印象に残っている なんか知らんけど、特定の少数グループの人たちから敵意を向けられていそうな感じが……
ずっとキャラクターが棒立ちしている絵ばかり描こうとしているが、いまだにちゃんとキャラクターを地面に立たせることができていない ふにゃっと地面に触れている感じ いつか立たないかなーと思いながら何度も同じような絵を描いている よろしくないなー(何が?)
キャラクターを単純に一人増やすだけで難易度がググッと上がるような気がする 描くコストが二倍になるのとは別に質的な難しさがある
キャラクターが二人同じ空間に居合わせている状況があまり自然には発生しないと思っていて、そういう意味でキャラクターが二人以上いる絵を描くにはシチュエーションをしっかり考える必要がありそれが難しい
わしはだいたい物語の筋をつかむように、スーと小説を読むタイプじゃ この記事のように一文一文を噛みしめ鑑賞することはあまりない
あくまで儂の場合だが、これは紙、電子媒体にかかわらず本というメディアの特性が原因なのだとおもう 本は文がとにかく密集して一斉に表示されているから 読んでも読んでも、読了するまでは次の文の存在が仄めかされ続けている なんとなく、次の文章をすぐ読まなくてはいけないような気になってしまう
一文読み、その都度立ち止まり、文が表している詳細なイメージについて考える そういったことはせずにただただ文章の流れを読んで情報を消費していく そうめんを噛まずにすすって飲み込むような感じ
この点において、ノベルゲームと本は全然異なった構造をしているなと思う
ノベルゲームは記事のように文章を区分けして、今読んでいる文だけを表示する プレイヤーがボタンを押すという行為によってはじめて次の文が現れる プレイヤーには、次の文が登場するまでの「間」を自由に設定する権利が与えられている
そのため、自然と今表示されている文章に立ち止まり、文の意味を反芻することになる 文章表現や物語の設定に細かなツッコミを与えながら読んだり、文章の意味や背景を考える時間を自由にとることが促されている(本の読書だってそれは許されてはいる 許されているけど、本は常に次の文、次の展開が自分を監視しているような感覚に陥ってつい次へ次へと読み進めてしまうのじゃ)
儂が書籍よりもノベルゲームの方が物語に没頭しやすく、魅力を感じているのは、絵や音楽といった単純な追加要素というよりかは、「いま読んでいるこの文」に集中させてくれるような構造をノベルゲームが持っているからなのだろうな、と思った
通称ヘブバンをサービス開始日からずっとちまちまやっている
やっぱ、メインシナリオがゲームの中枢にちゃんと設定されているゲームはすんなり受け入れられるので良い ゲームシステムとゲームの世界観の関係がちぐはぐだと、どうしてもそこが気になってしまうのでね(ガチャって何?みたいな些末な疑問はどうしても残るけど、まあこれは仕方ない)

買い切り型でないスマホゲーには、「ゲームの世界観をなるべく損なわずに、プレイヤーに課金をしてもらうためには、ゲームのシステムをどのように設定すれば良いか?」という大きな課題がのしかかっている
これに対してヘブバン及びスマホのシナリオ重視ゲー(以下、寿司ゲー)は、「最新のシナリオを読むための作業はけっこう時間をとりますけど、ここで課金すれば時短できまっせ!」みたいなスタンスでやっているなという印象
で、これは漫画アプリの先読みの機能に近いな、とふと思った
漫画アプリの場合、なんらかの単調な作業をやれば最新の話を読むことができる この作業に一日一回までだとか、作業に時間がかかるとかいった制約を課して、そのうえで課金という面倒な作業をスキップする手段を提示して、利用者を課金へと誘導している
寿司ゲーでは、ガチャを引けば引くほど要求される作業量が減っていく 課金をすればするだけガチャを引いて作業を減らすことができるので、漫画アプリと同様にプレイヤーを課金へと誘導している
ただしゲームの場合、作業という行為自体が、ゲームのシステムの中に組み込まれている そのため、作業はただただ単調なわけではなくゲーム性を帯びている これが漫画アプリと寿司ゲーの大きな違いじゃろう(課金およびガチャがキャラクターと結びついているというのもあるが)
そして、ここで現れている『ゲーム性』は、今主流の対人型でリアクティブなゲームにはあまりなく、従来のコンシューマゲームにあるような性質である(前に言及してた) こういう文脈で、寿司ゲーのシステムはコンシューマゲーのゲーム性を継承しておる
ただし寿司ゲーがどれだけゲーム性を持つのかはゲームバランスにかなり依存するのじゃ 個人的に、ヘブバンは今までプレイした寿司ゲーの中では一番バランスが取れていて面白いと思っておる このバランスが崩壊せず最後まで続きますように
ところでヘブバンの広告ってもうちょっとなんとかなりませんか?『最上の、切なさを。』ってキャッチフレーズとか特に
あ、自分でそういうこと言っちゃうんですね……みたいなダサさがある いやそういうテーマを設定することは全く悪くないと思いますが それを売り文句にするのはなんか違くない?
ゲーム内で切ない展開になっても「あ、今、『最上の、切なさ』提供されてるな」って思うと冷静になっちゃいませんか?
広告とかじゃなくても「泣けます」みたいな売り込みで紹介されると、実際にエモいシーンを見たときに「さあ、泣いてください。さあ、さあ!」と作品の外部から言われているような気がして、作品に集中できなくなってしまうんですが、これは儂だけなのか?
やっぱりネタバレはアカンやね 広告も観ず、何の前提知識もない、まっさらな状態でやるのが一番なんやね~(とは言いつつ、他人の紹介や口コミで、自力じゃたどり着けない良い作品に出合えるのも事実じゃ…… うじゃ)